1.年齢が若い
光武帝は挙兵したとき28歳、皇帝に即位したときが31歳、天下統一が43歳である。また、その家臣の鄧禹や耿弇はなんと20代前半で国家の大臣となり、大活躍するのである。
2.武勇がすごい
光武帝は驚異的な武勇の持ち主であった。昆陽の戦いでは、王莽の新軍百万──実数42万の大軍に3000人で突撃して中央突破、その大将である大司徒王尋を斬り、それに調子づけられた味方数万も参加し、ついに壊滅させた。
この後、河北で転戦していたときも常に陣頭指揮をしている。天性の将軍であり、馬に跨り敵を陥落させ向かうところすべて打ち破った名将とされる。
特に驚かされるのは、皇帝に即位してからの小長安の戦いや桃城の戦いで、10万以上の大軍、最強の突騎部隊、さらに呉漢、賈復、馬武、臧宮ら名高い猛将を率いているにもかかわらず、なお自ら得物を奮って敵を切りふせて戦っている。単に最前線で指揮するというだけならそうした勇武の君主もいなくはないが、実際に敵中に分け入って戦う皇帝など前代未聞、空前絶後である。このとき同行していた外国の使者は驚愕し、本国に帰ると「その武勇は人間に敵対できるものではない(其勇非人之敵)」と報告したほどである。
また銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したり、外国の使者である馬援とは護衛も武装もなく二人きりで面会したりした。お忍びの外出を好み、遠くまで狩猟に出かけて夜遅くに帰ったりとまったく命知らずである。
光武帝は無謀な人間ではないので、どんなときも自分の身を守れるだけの戦闘力を持っていたからとしか考えようがないのである。
光武帝は天下統一後、戦争を非常に嫌い、戦さという言葉を聞いただけでも怒ったという。まさに武を極めて武を捨てた英雄である。
3.でも強そうではない
しかし、昆陽の戦いのとき同僚の将軍は、「劉将軍はいつもちっちゃな敵も怖がるのに、いま大敵を見て勇ましいのは不思議だ」といった。戦いとか喧嘩のときは逃げ回るタイプだったのである。
また、挙兵のときは「あの真面目な劉秀が!」と驚き、あいつが参加するぐらいなら絶対に勝つに決まっているのだろうと、参加者が増えたという。
皇帝になってからは、親戚の叔母などに「おとなしいあんたが皇帝になっちゃうなんてねえ」と言われたぐらい弱そうだったのである。
挙兵のときの同盟相手の李通と交渉したとき、光武帝は怖かったので刀を買って腰にさして面会したのだが、握手したときに刀を取りあげられてしまい、
「何とも勇ましいことですな」
と笑われてしまった。情けなかったのである。
光武帝は、身長7尺3寸──168cmと実に中途半端な数字が記録されている。普通この程度の普通の身長の記録は残らないので珍しい。当時の男性としては、やや高いという程度で、体格も普通の人である。
しかも挙兵時は、牛にのってあらわれたというおとぼけぶりである。
4.だが格好いい
光武帝はなかなか美男子だったのである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て兵士たちは「天の人のようだ(真天人也!)」と感嘆したのである。
『東観記』では、才能もルックスも天性もので比べ物にならぬと称えられている。
洛陽に入城したときは、他の将軍たちがまるで野盗同然だったのに、光武帝のみは漢の正式の服装を着こなし格好良かったためみな心を寄せたとされる。
また弁舌も優れていて、親戚の納税問題について大臣に面会を求めて、協力させることに成功したこともある。
いかにも弱そうで頼りなさそうなのが実は強いというパターンではなく、見かけ倒しだと思われていたのが、見かけどころではないほど凄かったというのが劉秀である。
5.超親しみやすいお気楽キャラ
二枚目にして抜群の戦士、そして最高権力者たる皇帝である劉秀。一つ間違えれば、近寄りがたいはずだが、劉秀は全く逆で実にざっくばらん。人を見下ろしたり、態度がでかいのが大嫌い。
皇帝なのになんと人の上に立つのが嫌い。もともと皇帝になりたいと思ったこともないし、若い頃も出世の話は断るし、学業もあまり真剣じゃなかった。皇帝になってからも大臣と会話するときは、座から降りてすぐ横で話をする。冗談を言って笑わせるのが大好き。
その結果、周囲の人たちもみんな気軽に声をかけてしまう。田舎の小役人に「陛下はお金にせこい」と言われ、通りすがりの老人に「そんなことをするのは殷の紂王みたいなバカ」と言われ、隠者には仕えたくないと断られ、一緒に話し込んで寝たら腹を蹴られる始末。
城外に遊んで夜中に帰ったら、皇帝だといって顔を見せても門を開けてもらえない。家臣も全く遠慮なし。劉秀も家臣に対してお前は死刑とか、悪事の噂があると遠慮無く突っ込んだりするが、恐れ入る相手は一人もおらず、みんな賑やかに言い返してくる。
もちろんそれでも、劉秀を聖王と呼ぶ人が次々と出て来るほど慕われていた。実に庶民的な皇帝である。ちなみに"聖"と呼ばれるのにうんざりしたため、"聖"をNGワードに指定している。
6.奥さんは美人、息子も有能
光武帝の妻といえば、「妻を娶らば陰麗華」として知られる美人で有名な陰麗華である。おとなしい楚々とした西施タイプの美人らしい。しかも10歳も年下。
しかし皇后になったのはなぜか陰麗華が37歳のときのこと。20年も前から好きだって宣言してるくせに‥‥‥。ここに秘められた謎、20年愛の真相とは?
そして、その陰麗華の息子の劉荘は、後の明帝で、父に劣らぬ明君として知られている。その息子、すなわち孫の章帝もまた明君として評価が高い。
歴史上の建国の英雄の後には、お家騒動で内乱になるのが定番であるが、後漢は唯一の例外。後漢は光武帝の死後50年以上も国勢は登りっぱなしで、その将来の配慮は見事である。
「光武帝は天下を統一いたしますと、朝廷では有能な大臣とともに善政をひいて民衆に慕われ、時には戦場をともにした旧友と飲み会で騒ぎ、家では美人の奥さんと優秀な息子たちとともに末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
神話か、おとぎ話か? ご都合主義のハリウッド映画でも不可能なハッピーエンドである。
7.名君・光武帝と古代中国の精華・後漢王朝
光武帝といえば、奴婢の解放。領土を広げるたび、片っ端から奴婢を解放していった。
また「天地之性,人為貴」(人間であることこそが尊いのだ)に始まる詔で、奴婢と一般人との法的差異を解消して、さらに売人法と略人法を施行して人身売買を公式に法で禁止し、実質的に奴隷制を破棄してしまった。1世紀にして法の下の万人の平等を宣言してしまう。
また大学を立てて学問を振興し、地方にも学校をたくさん立てた。後漢の太学=国立大学の生徒は3万人にもなったほどである。ほとんどの子供が学校で学ぶようになり、識字率もぐんとアップ。都には本屋があらわれ、書写のアルバイトがおおはやり。※当時の本は手書きの木簡・竹簡をまるめたもの。
近代中国になるまでの間、後漢は識字率が最も高い時代であった。中国だけではなく、同時期のローマ帝国でも同じように非常に識字率が高かった。ローマ帝国では最貧の奴隷にも基礎教育があったし、後漢では庶民にも礼があり成童はみな学校に通っていたのである。これは歴史の偶然であろうか?
後漢は、古代中国が崩壊し中世中国へと変化する直前、最後の古代王朝である。古代が中世へと変わる直前に、東西の帝国はその文明の頂点を極めたのである。
後漢は、いろいろな思想が花開いた第二の百花斉放の時代となり、儒教を中心に道教や仏教も広まった。唯物論者王充、科学技術者張衡、筆記用紙の発明者蔡倫、文字学者許慎、文学者班固、儒学者鄭玄、外科医華陀、医学者張仲景、天文学者郄萌、数学者趙君卿、化学者魏伯陽、イリュージョニスト左慈、五斗米道張陵、太平道張角、詩人にして兵法家の曹操も後漢の人である。多く民間が中心で、その内容も為政者のためでなく民間の生活に関連することに注目したい。
こうした民間の文化や思想が花開き、政治面でも中国史上初めて世論が生まれ、民間からの意思表示が行われた。人物評論が流行り、シャドーキャビネットに相当するものまで生まれたのだ。後漢は中国がまさに中国になった時代となのである。
中国の形を作ったのが秦の始皇帝、中国の中身を作ったのが後漢の光武帝ともいわれるのだ。
こうした文化の発展が生まれたのも、生産力が高くなったため。前漢の農業は小農家主体の零細なものだったが、光武帝の地方官は農業を振興し、耕牛、養蚕、石臼を全国的に普及させ、大規模な分業体制に移行させたため、収穫が安定したのである。金属産業が発達し、銅や鉄の生産が飛躍した時期でもある。医学が発達し、疫病の流行時に民間に医師が派遣されるようになったのも後漢からである。
また、税金を30分の1税に減税し、役所を整理リストラして節税し、地方の軍備を省略して農民の苦労を減らした。この数十万に及ぶ兵士や役人のリストラは、人的エネルギーの民間への還元となり、民衆の生産力は著しく向上した。そのため、銅貨の生産が追いつかなくなり、絹や布も貨幣として多用されるようになった。生産力の低下した不況の時代ではないので注意。統計人口こそ前漢にわずかに及ばなかったが、それは流動する遊民の数が多くなったためであって、実人口は前漢を遥かに上回っており、GNPも前漢以上であったのは間違いない。
例えば、国家の商業経済の発展度と明確に相関する首都の人口を比べよう。前漢の首都長安の人口はわずか24万人に過ぎなかった。対する後漢の首都洛陽の人口は数百万に及んだ。董卓が洛陽を焼き払った時、付き従った洛陽の民衆の数は数百万と記録されるのだ。後漢政府は首都人口を強制的に増加させるような強権的施策はとっておらず、この人口は経済発展以外の何ものでもないのである。
同時期の古代ローマ帝国、その首都のローマも人口百万を超えた。どちらが先に人類史上初の百万都市となったのか興味深い。
前漢は中央政府が強力で、税金よりも大きな負担となる強制労働の義務があり、労役国家とまで呼ばれていた。光武帝は、それらを解放することで、歴史の進化を阻む政府を取り除き、経済発展を生み出したのである。それは後に国家の統制力を弱めることになったが、民衆の生活を向上させ、文化を発展させ、科学も前進した。光武帝は、民衆の力というパンドラの箱を開いたのである。
犯罪数も前漢の時代の1/5となり、時の人は光武帝と明帝の元号にちなんで「建武の治、永平の政」と呼んで絶賛したのでした。
※ 前漢を新中国建国時代、新を文革期、後漢を鄧小平以降と比較して理解するとわかりやすいかもしれない。あるいは前漢を戦前の日本、後漢を戦後日本と考えてもわかりやすい。
※ 後漢の戸口統計が信頼できないことは越智重明に指摘がある。
※ 陽明学者の安岡正篤、政治学者の吹浦忠正は、産業革命以前における教育の最も発展し平和を謳歌した時代として、日本の江戸と中国の後漢を挙げている。
8.三国志が面白いのも光武帝のおかげ
そして三国時代が面白いのもこのためである。
中国史好きは言う。三国時代は別に特別な時代ではないと。これは三国志だけしか知らない日本人への不満の言葉だが、ある一面では真実ではない。三国時代は、中国史においても特別な時代なのである。
他の戦乱の時代と比較すればわかる。他の時代も確かに面白いのだが、三国時代よりも殺伐としたムードが著しい。関羽、張飛のような猛将が数え切れないほど出てきて肉弾戦を展開する、凄まじい殴り合いの時代なのである。南北朝、隋唐の建国、安史の乱、五代十国、南宋と金の対決……、どの時代にも、関羽、張飛もかくやという人物が死闘を繰り広げる。
対する三国時代は、知恵の時代である。三国時代は知能戦、謀略戦の時代なのだ。歴史上の主人公である曹操が、超一級の策士であったし、その謀臣も数え切れないほどいた。対する劉備や孫権にもたくさんの謀臣がいた。これは、正史の伝記から謀臣の人数を数えればすぐわかることなので、真の中国史好きなら確認してみよう。
この原因は、後漢王朝における異常なまでの識字率の高さであり、民力の余裕が生み出したものなのである。三国志ファンは光武帝に感謝し、光武帝人気者化計画を推進しなければなりません!
9.名将・光武帝
光武帝は、河北で即位すると、天下に乱立する群雄と戦うことになる。当時、光武帝と同じ程度の勢力の群雄が10程度いる群雄割拠の時代である。そのとき普通なら、遠交近攻とか同盟離散とかありそうであるが、光武帝は違う。遠く西方の竇融を除くと、すべてを敵に回して戦ったのである。
なんでこんなことになったかというと‥‥‥
光武帝「降伏しろ!」、敵「じゃ、せめてこのぐらいは領土をくれ」、光武帝「命だけは保証するが、領土はなし」、敵「馬鹿にするなー」
こんなので降伏する馬鹿はいない。だから当然兵力が苦しく、ほとんどの敵に対して半分以下の兵力で戦うことになった。しかし、光武帝とその配下の名将は、それで次々と勝ち続け天下を取ってしまったのである。もちろん、降伏した敵はちゃんと命だけは助かり天命をまっとうした。ちなみに、光武帝自身も将軍として百戦以上戦って、敗戦はわずか一度というほどの名将である。
天下統一後の匈奴との戦いでも、驚くべき作戦に出る。光武帝は、戦乱のため内地の農地が余っていることから北方の国境の住民を内地へと移住させ、軍隊のみを残したのである。これはの堅壁清野の計で、敵の食糧を断って撃退する作戦である。一城程度ならともかく、国家対国家規模でこの作戦に出たことはほとんど暴挙ともいえる戦略であった。
匈奴が漢民族を襲うのは、もっぱら食糧を奪うためである。これは北方の不安定な環境と遊牧による蓄積困難からくるものである。ところがこの光武帝の政策のため、匈奴は攻めても何も得られなくなった。一種の経済封鎖である。匈奴はついに耐えきれずに内部分裂を起こし、南匈奴が降伏、漢のため北方を守備することになったのである。
かつて始皇帝も高祖劉邦も統一後に匈奴に攻め入り、莫大な費用を使い、あるいは苦戦を強いられた。これに対して光武帝は、匈奴を戦わずして倒したのである。
10.その家臣たちも個性派ぞろい
光武帝の家臣は実に幅広く選ばれている。鄧禹や耿弇は20代前半、祭遵や馬成は同世代の30代、呉漢は40代、馮異は50代、最年長の卓茂は70である。
武勇には、賈復、馬武を筆頭に、銚期、臧宮、陳俊、蓋延、景丹、朱祐などの豪傑がいる。無敵の名将として耿弇、馮異、岑彭、祭遵、王覇、来歙。知将といえば、馬援、寇恂、耿純。無二の忠臣として鄧禹と呉漢。優れた文官は数多く、李通、侯覇、任延、第五倫、張堪、張純、趙憙、杜詩、樊曄、馮魴など一国の宰相級の人物がずらり。
身分もばらばら。親戚の将軍は、朱祐、来歙、鄧晨ぐらいで、光武帝に仕える必然性のある人はごくわずか。
天才文学者と評判の鄧禹、兵法学者の馮異、貧民あがりの烈士呉漢、山賊あがりの馬武、賈復、臧宮、王常、地味な小役人だった王覇、堅鐔、馬成、ただ単に美貌であるという理由で部下にした祭遵、商人系大富豪の李通、大豪族である劉植、耿純、地方の大官の御曹司にして名医である耿弇。
選り好みなく、各種取り合わせた、無敵の家臣団である。
11.天命を受けた28人の勇士
中国の天文学では、太陽の通る黄道上を28に分割し、二十八宿という星座が設定されている。そして後漢の建国を支えた勇士たちは、この二十八宿の生まれ変わり、あるいはその力を受けて戦う存在だったというのである。
これはただの伝説ではなく、洛陽の南宮の雲台に28人の絵が描かれて祀られていた。
彼ら28人は、光武帝との信頼関係も厚く、生涯その信頼関係が壊れることがなかった。他の時代の功臣たちとあまりに違うため、きっと天命で定められているに違いないと、人々もまた信じたのである。
光武帝の即位のきっかけの一つ、予言書の『赤伏符』には「四七之際火為主」とあり、それは「4×7=28士が集まるとき火徳を持つものが天下の主となる」という意味とも考えられるのである。
光武帝は建武二年の正月に洛陽において、二十八宿の祭祀を行い、家臣を選び侯に封じている。
水滸伝の原作というべき伝説が後漢にあったのである。
※ ちなみに28という数字は、光武帝のキーワードとされる。光武帝が挙兵したとき28歳であり、即位したのは漢が成立してから228年目であった。
12.女性が暴れるこの時代
まさに英雄が乱舞する混乱の時代であるが、異例なほど女性のキャストがいる。
古くは、長安の宮殿に突入した謎の少女・陳持弓から、黄河を荒らす女海賊・遅昭平、赤眉の乱の母体というべき海賊・徐母、ベトナムのジャンヌダルクこと徴姉妹など、戦う女性の時代でもあった。
13.本当はジョーク大好き、おとぼけ&ツッコミ皇帝
光武帝は、受け狙いのジョークが大好き。でもちょっとスカが多いのは、本人も悩ましいところ。いや聞かされる家臣の悩み?
少年の頃、劉秀が天子になるとの予言書を見て、みな当時の大臣の劉秀が即位するかどうか話していたとき、「ボクもいるぞ!」と言って大受けを取った。
年下の親友の鄧禹が光武帝のもとに参加しようとすると、「先生はわざわざ遠くから仕えにいらっしゃいまして‥‥‥」(からかったわけ)
馬援が光武帝に面会すると、「蜀とかウチとか悠々と遊びまわって、会うやつはみんな恥ずかしがるぞ」(これもからかったわけ)
馬援ががんばってこれをいいわけした後、「こんな気軽に私に会うなんて私が刺客だったどうするのです」と反撃すると、「そなたは刺す客ではない、説く客じゃ!」とだじゃれで応戦。
とにかく、変なことを言わないと気が済まないのが笑いの帝王光武帝なのである。とはいえその笑いのレベルは、史書に陰麗華はジョークが大っ嫌いだったと記されてしまう程度なのであった……