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棺で凱旋した儒将軍・祭遵
 建武九年(西暦33年)一月。
 軍中に祭遵が亡くなった。詔により馮異が征虜将軍としてその陣を併合した。
 祭遵の遺体が河南県に入ると、詔して百官を葬儀の場に遣わし、劉秀は喪服にて迎え、遠く望み哭し哀しみ声を上げて泣いた。
 洛陽の城門を通っても涙を流して止まらなかった。喪の礼が成ると、また自ら太牢で祀り、宣帝の大臣霍光の故事と同じ礼とした。
 劉秀は朝廷でたびたび感嘆した。
どうして祭征虜のごとき国を憂い奉公する臣が得られるだろうか
 衛尉の銚期は、劉秀の感動を見て答えた。
陛下は本当に恵みの心が深く、祭遵を哀れ念じてやまぬのを見て、私ども群臣はおのおの恥じるものがあります
 これほどまでに惜しまれた祭遵とはどのような人物だったのだろうか。
 祭遵は、郷里の役人たちにあなどられていたという。またその県の人々も、柔弱者と見なしていた。優しい女性的な風貌をしていたのであろう。
 また劉秀はその容儀を愛して部下にしたという。簡単ら言うとルックスで部下に選んだのである。おそらくは女性的な美貌をもった、漢の張良や北魏の崔浩のような人物だったと考えられる。
 祭遵の家は裕福であったが、劉秀の部下になったとき、まだ官位についたことがなかった。また、劉秀が他の将軍に祭遵を紹介するときに「祭遵」と呼び捨てにしており、聞き手の他の将軍よりも若いことが推定される。その年齢は劉秀とほぼ同年代と考えられる。
 だが、彼は見た目そのままの弱い性格だったのではない。また、張良や崔浩のような知謀が特徴の参謀でもなかった。
 郷里の役人にあなどられたときは、賓客を引き連れてその役人を襲撃して殺してしまった。
 また、劉秀に仕えて軍の市場の長官となっていたとき、市場で不正をしていた劉秀の小間使いを見つけると、その場でたたき殺してしまったのである。
 劉秀は、当初怒ったものの、すぐにその非を悟り、祭遵を刺姦将軍とした。軍の規律を監督することとなったのである。
 また、建武二年に柏華の蛮中と戦ったときのこと。陣頭指揮していた祭遵は弩の矢を受けて激しく流血したが、動揺する兵士を叱咤激励して一歩も引くことがなかったという。
 なかなかの猛将であったといえる。
 祭遵の軍隊は、軍紀が厳正で兵士が問題を起こすことがなく、その軍のいる県では、軍隊が滞在していることにすら気づかなかったという。その兵士は極めて精鋭であり、他の部隊より速く行軍することができた。
 かつて耿弇、朱祜、祭遵に張豊攻撃の命令が出たが、戦場に真っ先に到着したのが祭遵であった。祭遵は一気に急襲してこれを平定してしまったので、耿弇や朱祜には出番がなくなってしまった。
 建武八年(西暦32年)、隗囂の本拠に近い略陽を来歙とともに攻撃することになった。しかし、祭遵は病のため兵士を来歙に分けて帰還した。この兵士は精鋭であり、山中を切り開いて略陽にあらわれ、瞬く間に略陽を攻略したので、隗囂はその神速ぶりに驚愕したという。
 略陽攻略を指揮したのは来歙であるが、その軍隊の中核となったのは祭遵の精鋭であったので、祭遵の功績としても記録されることとなった。
 隗囂との戦いでは、公孫述の援軍によって主力の呉漢らが敗走し、長安へと帰還することとなったが、病の重い祭遵は殿として隗囂との最前線に残ることとなった。しかも隴西一帯の豪族たちは、漢軍の敗北を見て隗囂側に寝返ったため、祭遵はますます苦しい状況となった。
 翌年、祭遵は陣中に没し、その軍は馮異に引き継がれることとなった。その直後、隗囂も亡くなったので、祭遵の棺が都へと帰ってくることができた。
 これは実は驚異的なことである。
 将軍が病重ければ指揮できないだけでなく、士気も低下し、まともに戦うことはできない。略陽攻略で引き返し、劉秀の主力が撤退したときも前線に残されており、旅ができないほど病が重かったとみられる。従って戦闘指揮ができたかも疑問である。
 また、敵前に寡兵で取り残され、敵を前にしたまま死亡したにもかかわらず敗戦することもなく、その軍は馮異へと引き継ぐことができた。
 この一年間、祭遵の軍に混乱がなかったことは特筆に値する。
 歴史上、大将が病気に倒れてなお戦うことができる部隊はほとんど存在しない。
 唐の太宗李世民は軍事の天才であった。その彼も秦の薛氏への遠征において病気になると敗戦している。大将が病気に倒れれば、戦いについて不安が生まれ、士気が低下して敵に打ち破られてしまうものなのである。
 この数少ない例外として祭遵を数えることができる。他には蜀漢の諸葛孔明、唐の李晟の二人がいるだけである。また日本の戦国時代、大友家の部将立花道雪もそのような部隊であったという。
 彼らが病に倒れると、不安ではなく大将を守ろうとするためにむしろ士気は高くなった。病や死に乗じて戦おうとする卑劣な敵を倒さんと意気上がる、これは将としての最上級のエピソードなのである。祭遵の兵士が、祭遵なくともその命令を守って戦うことができたことは、その兵士が略陽攻略で活躍したことでもわかる。
 
祭遵の兵士育成法
 祭遵は、もともと劉秀のもとで軍紀の粛清係をつとめていた。将軍としてもその軍紀の厳しさは最高であった。
 しかし、ただ厳しかっただけではない。
 祭遵は劉秀の信頼が厚く、しばしば特別に賞与を与えられていた。しかし、給与も報償もすべて兵士に与えたので、私財がまるでなかったという。
 子供がいなかったので妾を娶るように薦められても、それを断った。家のことを決して語らなかった。すべてにおいて国家のことを最優先とした。
 また、孔子の子孫を国に封じることや五経大夫を置くことを進言した。祭遵は儒に詳しく、孔子の教えを信奉していたのである。
 将軍となると、部隊長を選ぶのに儒を基準して選んだ。戦場を前にしても、部下たちとともに儒の作法に基づいて酒を飲み、音楽を演奏し、雅歌を歌い、投壺(壺に矢を投げ入れる遊び)をして遊んだ。悠然として儒者の風があったのである。
 儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
 孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
 人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
 すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。
 祭遵の死後、隗囂も亡くなり、隴西は一気に弱体化した。大勢は決し隴西との戦いは戦後処理の様相を呈していた。そうした中、隴西との戦いの功績一番として、祭遵の棺は都に帰ってきた。その葬儀は、前漢の宰相であった霍光と同じくし、朝廷の百官が総出で出迎える壮大なものであった。
 劉秀は、祭遵の棺が通り過ぎてもなお悲しみに耐えず、いつまでも泣きやむことがなかった。おそらくはまだ三十代、早すぎる死であった。
 
隗囂死す
 建武九年(西暦33年)正月、隗囂は病に苦しみかつ飢えていた。城を出て豆粥と糒(ほしい)食べていたとき、怒りに憤慨して死んだ。王元、周宗たちは隗囂の末っ子の隗純を王に立てた。
 隗囂はその行動が不思議な人物である。
 まずあまりにもその行動に一貫性がないことである。当初、挙兵に反対しながら結局はリーダーになり、劉玄に降服した後は、叔父を密告して自分の命を守り、しかし結局は叔父同様に劉玄から離反しようとする。当初は公孫述と激しく対立し、何度も同盟の呼びかけを拒絶し、使者を殺し、軍隊を何度も撃破しているのに、結局は公孫述と連携して戦うようになる。劉秀の勢力が大きくなると、息子を人質に送りながら、反旗を翻し息子を見殺しにして激しく抵抗する。
 信義のかけらもなく、他人から信頼を得にくいように見える。
 ところが部下たちの隗囂への信頼は相当なもので、戦局がはっきり苦しくなるまで離反者は出なかった。死をもって忠誠心を証明した王捷を見てもその人望の厚さは相当なものである。人によくへりくだり、礼儀正しく文才があった。隗囂は正史の三国志の劉備を思わせる人物のようだ。
 隗囂で有力な臣下であった文官に、谷恭、范逡、趙秉、蘇衡、鄭興、申屠剛、杜林、将軍に楊広、王遵、周宗、行巡、王捷、王元、馬援、牛邯などがいたが、このうち後に劉秀陣営で出世するのが鄭興、申屠剛、杜林、馬援、牛邯、王遵、王元、范逡、趙秉である。残りの楊広は病死、王捷は自害、谷恭は高齢、降伏後の記録がないのは子の隗純に最期まで従った周宗、行巡ぐらいである。隗囂の部下はほぼ全員が捨てるに惜しいほどの人材であったとわかる。
 ただこうして見ると謀臣が欠如している。当初の軍師であった方望が去った後、戦略を立てるものがいないのである。隗囂の生涯は、諸葛孔明に出会うことのなかった劉備に相当すると言えよう。
 
隗囂の残党・寇恂の鬼謀
 王元、周宗たちは隗囂の息子を守り兵力を維持して冀城を本拠とした。公孫述は将軍趙匡、田弇を派遣して援軍を送った。
 建武九年(西暦33年)二月。劉秀は馮異に天水太守の職務を兼任させた。征西大将軍馮異、建威大将軍耿弇、虎牙大将軍蓋延、揚武将軍馬成、武威将軍劉尚が天水へ入り、趙匡、田弇と戦うこと一年、趙匡、田弇を斬った。
 馮異に璽書を賜い、
将軍の兵士は精鋭でいかなる強敵も避けないと聞いているが、賞与があってこそ、将軍は兵士の信頼に背かず、結束を維持できるのだ。
 馮異は自分の功績を宣伝せず、同僚の将軍に賞与を譲ってしまうことを心配したのである。かつて呉漢、蓋延、耿弇、王常、馬武、劉尚らに、馮異は功績を譲っていたことがあったが、その態度はその後も変わらなかったのであろう。
 さらに馮異、耿弇、蓋延、馬成、劉尚は、隗純の本拠の冀城を攻めたが攻略できなかった。しばらく兵を帰還させて休ませることになった。馮異が前線に残って敵を防いだ。
 来歙が上書して、隗囂残党は補給に苦しんでいるから財宝や食料で招き寄せれば倒すことができると言う。
 劉秀はこれを正しいとした。汧県に穀物六万斛を驢馬四百頭に運ばせた。
 建武九年(西暦33年)秋八月、中郎将来歙を遣わし、馬援を太中大夫として来歙の副とし、征西大将軍馮異ら五将軍を監督させ、隗純を天水で攻撃した。
 王莽の末から、西羌が辺境を侵し、ついに塞の中に入り込み、金城の各県は羌の領土となっていた。来歙は上奏して、隴西の賊は馬援でなくては平定することはできないといった。
 蓋延は西に街泉、略陽、清水の各陣地を撃ちすべて平定した。
 耿弇と来歙が部隊を分けて安定、北地の各陣地をめぐり、ほとんどを降伏させた。
 しかし抵抗していたのが高峻で、高平に拠り誅殺を恐れて堅く守っていた。耿弇は太中大夫竇士、武威太守梁統らと高峻を包囲した。その後、一年しても城は陥落しなかった。
 
 夏、征西大将軍馮異が公孫述の将軍趙匡を天水に破り、これを斬った。
 しばらくして征西大将軍馮異が亡くなった。馮異は諸将と落門を攻め、まだ抜けていないときに病気となり、軍に亡くなったのである。諡して節侯という。
 耿弇、竇士、梁統に抵抗している高峻は、一万人の兵力を持ち高平第一を根拠としている。馬援の遊説に従い高峻は降伏した。そのおかげで河西への連絡路が開け、竇融と連携できたのである。中郎将來歙は高峻を通路将軍に任じ関內侯に封じた。後に高峻は大司馬呉漢にとともに隗囂を冀城で包囲した。しかし漢軍が退却すると高峻は高平第一へと逃げ帰り、再び隗囂に協力するようになっていたのである。
 建武十年(西暦34年)、劉秀は高峻を自ら制圧しようとした。寇恂は劉秀を諌めた。
長安の道里は洛陽と高平の中間にあり、対応に便利で、安定、隴西は必ずや震え恐れを懐きます。ここにゆったりと構えていれば一か所にいて四方を制することができるのです。いま兵士や馬は疲れ倦んでいるのに、険阻を踏み込もうとするのは、皇帝の為すべきことではありません。前の潁川のことを戒めとすべきです
 劉秀は従わず、汧に進軍した。高峻はなお降らず、劉秀は会議して使者を遣わしてこれを降そうとして、寇恂にいった。
卿は前にわたしの作戦を止めようとしたが、いまは私のために働いてほしい。もし高峻がすぐに降伏しなければ、耿弇ら五部隊に攻撃させよう
 寇恂が璽書を奉じて第一に至ると、高峻の軍師皇甫文が出迎えた。礼儀正しいが降伏の意志は見せない。寇恂は怒り、皇甫文を殺そうとした。諸将は諌めた。
高峻の精兵は一万人、彊弩を多くもっており、西に隴道をさえぎり、年を越えて抵抗しています。いまこれを降伏させようというのに、逆にその使者を処刑するなど、すべきではないのではないでしょうか
 寇恂は応じようとせず、ついにこれを斬った。その副官を帰して高峻に告げさせた。
軍師は無礼であるので、すでに処刑した。降るのなら急いで降れ。いやなら固く守れ
 高峻は恐れて、その日に城門を開いて降伏した。諸将は祝賀してたずねた。
あえて問いたいのですが、その使者を殺してその城を降すことができたのは、どうしてなのですか
皇甫文は、高峻の腹心、その計略の出るところである。いまやって来ても言葉は強気で降伏の気持ちなどなかった。助ければ皇甫文はその計略の通りとなるが、これを殺せば高峻はその胆を失う。それゆえ降伏したのである
 諸将はみな言った。
「わたしどもの及ぶところではありません
 高峻は赦され、ともに洛陽に帰った。
 建武十年(西暦34年)冬十月、中郎将来歙、耿弇、蓋延がついに隗純を落門に大破した。その将軍、王元は蜀に逃亡したが、周宗、行巡、苟宇、趙恢らが隗純を率いて降伏した。さらに天水郡の各県も降り、隴右は平定された。周宗、趙恢と隗一族は洛陽の東に分けて移住させた。隗純と行巡、苟宇は弘農へ移住させた。だだ王元は蜀に留まって公孫述の将軍となった。
 建武十八年(西暦42年)、隗純とその食客十騎は匈奴に逃げようとして武威に至り、逮捕されて処刑された。
 
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