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諸葛亮の劉秀評
 劉秀については、後の人がいろいろと論じている。ここでは日本でも有名な『三国志』の諸葛亮の意見を読んでみよう。
 
『金楼子』巻四「立言篇」 ─ 光武帝を論ず
 曹植は光武帝劉秀を評価していった。
「光武帝の将軍は韓信、周勃に比べられぬし、謀臣も張良、陳平ほどではない」
 このごろ光武帝を論ずるものはみなその通りだとした。
 私(諸葛亮)が思うに、この言葉は光武帝の徳を褒めようとしたものではあるが、一代の英雄たちをおとしめる言葉でもある。
 それはどういうことか。
 光武帝の二十八将から下は馬援の事跡を見るに、みな忠貞智勇備わらぬものはなく、正確に評価すれば高祖の家臣に劣るなどとはいえない。張良、陳平があれほど才能を発揮したのは、高祖の行動が粗略であったためで、だからこそ張良、陳平は有名となり、韓信、周勃は外に活躍したのである。
 ことわざに言う。
「火災を予防するものは評価されず、火災を消すため必死になるものは賞賛される」
 この言葉は小さいといえども、高祖と光武帝のことに似ている。光武帝は神の如き計略を持ちそれは天性のものである。重大な決断も参謀が光武帝のかわりに考える必要はなく、多くの奇策も別の人間が提案したものではなかった。そのため参謀が計略を出すと常に一致し、ともに帝業を興したのである。
 光武帝は鄧禹を称えていった。
「孔子に顔回がいて、弟子たちはますます仲が良くなった。(鄧禹のおかげで家臣たちが仲良くなったことを示す)」
 呉漢に感嘆していった。
「将軍はわが心を強くする。その武力をまねることはできるが、その忠義をまねることは誰にもできない」
 家臣とともに作戦を練ると、いつも馬援に最後に発言させたが、それは馬援がいつも光武帝自身の考えと同じであったからである。
 これらみな光武帝の知恵が高く、また臣下をよく知っていたことを示している。光武帝の名将たちは韓信、周勃に足らぬことはないし、謀臣も張良、陳平に劣らぬ。そう見えなかったのは、もともと光武帝の知略が深遠で、火事を起こさぬ──失敗を起こさぬだけの知恵があるからだ。それに対し高祖は粗略だったので、陳平、張良、韓信、周勃が輝いて見えるのである。
 
人に望みをかなえる生涯
 諸葛亮もまた劉秀ファンの一人である。孔明の隠棲した臥龍崗が南陽にあるのは、そこがおそらく劉秀の出身地に近いからだろう。漢朝復興の志を持つ者として、その復興に成功した人物について調べていたのだと思われる。
 私も諸葛亮にならい光武帝劉秀と高祖劉邦と比較してその人生を考えてみる。
 劉邦はたくさんの失敗があり、それをいつも家臣が助けている。函谷関を閉鎖したため項羽に攻められたときは張良が助けたし、匈奴に包囲されたときは陳平が助けた。劉邦が失敗して家臣が助けるというのがパターンである。
 劉秀はどうか。
 昆陽の戦いでは、みなが逃げまどう中で一人作戦を立て、自ら斬り込んで勝利した。鄧禹が赤眉と戦って手こずると劉秀が親征して平定した。蓋延が董憲と戦って負けると劉秀が親征して大破した。岑彭が鄧奉と戦って苦戦すると親征して平定した。呉漢が隗囂と戦って苦戦するとやはり親征して大破した。いつも家臣や周囲が手こずっているので劉秀がそれを助けるというパターンばかりである。
 劉邦は、項羽と戦って大敗すると家族を見捨てて逃亡し、さらに自分の子どもすら逃げるのに邪魔だと捨てて逃げようとした。対して劉秀は、小長安の戦いの混乱の中で妹劉伯姫を助け、さらに姉の劉元まで助けようとした。劉邦と全く正反対なのだ。
 挙兵時も劉秀自身は何の計画もなく、兄の劉縯や李通が計画して失敗すると慌ててフォローしている。劉縯の宛攻略が長引くと兵糧を集めて送っている。やはり人を手伝って行動している。
 歴史上の天下を狙う豪傑、建国の英雄たちはみな親分肌で、若い頃から多数の子分を引き連れていた。何もしなくても人が集まりリーダーになってしまうのである。
 ところが劉秀は挙兵当時、自分の部下と言える人間は一人もいなかった。朱祜は自分でなく兄の親友かつ腹心であるし、仲の良かった鄧禹ですら挙兵時には参加していなかったのだ。親戚からはまじめで人見知りする交際の狭い人と思われていた。何か大きなことを起こそうなどという大志などなかったことがわかる。
 学生時代の学業もそれほど熱心ではなく、大臣との面会という出世の糸口すらあっさり放棄している。立身出世など眼中になかったのだ。
 それは劉秀の読書からもわかる。もしも王莽打倒など天下への大志を持つなら、兵法書を学ぶことが不可欠であろう。劉秀はたいへんな読書家で、その発言や公文書にはたくさんの引用があり、劉秀がどんな本を読んでいたかがわかる。ところがその読書の中心は『尚書』『詩経』『論語』といった標準的な儒教の経典ばかりで、『孫子』や『呉子』のような兵法書がないのである。
 劉秀はこの時代を代表する名将であり、家臣に用兵を助言することも多いにもかかわらず、兵法書の名前やその引用文が見つからないのは、劉秀はそもそも兵法書を読んでいないことを示している。かろうじて晩年に『三略』の原作とされる『黄石公記』の引用があるが、これも実際には兵法書というより政治学の書である。
 興味深いことは建武十九年(西暦43年)の妖巫維氾の乱のとき、息子の劉陽が包囲するときは一ヵ所を空けておくという『孫子』の有名な作戦「囲む師は必ず欠く」を進言し、これを採用したこと。このことは劉秀は『孫子』すら読んでいないことを示唆している。まさかと思うだろうか。しかし実際に劉秀の攻城戦は、びっしりと包囲して内部の裏切りを待つという戦法ばかりで、「囲む師は必ず欠く」を実行したことは一度もないのである。
 『東観漢記』には「兵法などはただ書かれたものに過ぎず実際の役に立たない」と言い捨てる台詞もある。また皇帝になっての晩年、皇太子に兵法を教えてくれと頼まれたき、お前には必要ないと追い払ったこともある。実戦たたき上げの将軍である劉秀は、こうした机上の兵法書を嫌悪していたようだ。
 子分も作らず兵法書も読まない劉秀は、もともと天下に関心がなかったのは明白だ。歴史上の建国の英雄たちのほとんどは、悲憤慷慨して天下を憂い、理想を抱いて天下をあるべき姿に変えようと踏み出して行くが、劉秀には全くそんな様子はない。
 劉秀は皇帝になる前に、時と場所を変えて八度も皇帝になるように頼まれている。歴史上にこれほどたくさん皇帝になるように望まれた人物はいない。家臣が何度も皇帝になるように進言しているのは、何度言っても言葉を濁すだけで応じないのを家臣が見かねて必死にたきつけていたことがわかる。
 このような男が皇帝となるなど、奇跡以外の何物でもない。そもそも生物学的に見ると、武人としての闘争能力はテストステロンに関連しており強い上昇志向と相関するため、劉秀のような人間が存在すること自体が奇跡的である。その上に同姓同名の宰相が皇帝の座を狙って予言書を偽造したというのも凄まじい偶然である。さらに包囲された味方を救出するための昆陽の戦いで、伝説的名将の名声を築いてしまう。さらに挙兵計画の首謀者たる兄が非業の死を遂げることで、打倒王莽決起人の正当後継者と目されてしまう。さらにほとんど魔術的なまでに人を見抜く鄧禹という親友がいて、皇帝になるように応援し続けたのである。
 光武帝劉秀とはまさに四重、五重に偶然が積み重なった歴史の奇跡、時代が作った英雄なのである。
 

 劉秀は悪く言えば主体性がなく、周囲の期待を吸い上げて生きてきた。劉秀の生涯からは、彼自身の意志や願望がほとんど見えない。
 劉秀はいったい何を望み、何を夢見て生きたのか。
 劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
 劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
 家庭でも、家計を破綻させそうな兄の劉縯のため農業に努めて稼いだし、税金の減免交渉に出たり、姉の結婚相手を探すのに協力したりと、ここでも他人の世話ばかりである。長安での学生時代も同級生のために解説してあげたり、郷里から上京してきた人に情報を与えたりしていた。いい人づくしである。
 侠客とつき合いがあり裏社会に通じているという裏の面があると思ったら、そこで行ったことも逃亡者を匿って逃がしてあげることだった。どこまでも困っている人を助けるのが何よりも好きな性格なのだ。
 河北へ脱出したとき、自らのことを考えれば河北の有力者と連携し独立の準備をすべきなのに、そうせずに、王莽の新法で法律にかかって困っている人々を救済する作業を始めた。
 王郎との戦いが終わったとき、敵に内通した者の内心を思いやって許してやり、銅馬軍との戦いの後は自分の命をかけて不安におびえる銅馬軍を安心させた。皇帝に即位すると兵士たちの家族との再会の願いを叶えるため奴婢の解放令を出した。隠者を招聘しても相手が拒絶すれば強要せずに、相手の志に従った。
 皇帝になっても相手の気持ちを考えて喜ばせるという劉秀の行動原理は変わらなかった。
 死に際しての遺言が「朕は百姓に益するところなし」という衝撃的な言葉で始まるのも、自分が他人に何ができるかということを常に念頭に置いていたことを示している。最後の瞬間まで他人に対して何をできるかを考えていたのだ。劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。そしてそれを自分の喜びとして取り込んでいくのが劉秀なのである。
 この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
 ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。それも文字通りの世界帝国の支配者としての物質的なものだけでなく精神的なもの――国民からの厚い信頼、美しい妻と愛する家族、生涯変わらぬ戦場の戦士たちとの友情……。
 しかしもちろん劉秀にとって何が本当に欲しかったものなのかは明白だ。
 無数の押しつけられるように得たものの中で、ただ一つ、公言して自ら望んで得たもの。
 ところがこのただ一つの願望を実現するには、信じられないほど大きなことを成し遂げなければならなかった。離ればなれになった陰麗華と再会するためには、皇帝になって郷里に帰る以外に道はなかったのだ。
 陰麗華との息子である明帝劉陽は、母親思いでしばしば両親の夢を見た。そこでは劉秀と陰麗華がいつものように楽しく会話していたという(先帝太后如平生歓)。"歓"とは声を出してにぎやかに騒ぐことを言う。冗談を言うのが何より好きな劉秀と、時にはその冗談が嫌いと反発した陰麗華。二人がどんな愉快で楽しい会話をしていたか想像に余る、二人の仲睦まじさが偲ばれるエピソードである。
 劉秀は、その夢を実現したのである。

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