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戦友との変わらぬ友情
 彼ら二十八将と劉秀との関係は、主従というより友情というべきものであった。ここでは劉秀と部下の信頼の深さを示すエピソードを紹介しよう。
 まず赤眉討伐で活躍した馮異である。
 馮異は鄧禹に代わって赤眉を討伐し、赤眉が降服した後もそのまま関中にとどまり、赤眉の残党を討伐し、西の隗囂、南の公孫述と戦い功績を立てた。関中の統治にも才能を発揮し、民衆に慕われ、馮異軍の本拠地が大きな都になったほどである。
 馮異は君主から離れて遠征が長く、不安を感じたので、たびたび上書して宮廷に入って参謀として働きたいと述べたが、劉秀は許可しなかった。
 不安は的中した。離間を謀るものがあり、次のように上書する者があった。
馮異は関中を専断していて、かってに長安の令を斬り、威信と権力が非常に重く、民衆も心から帰服して、咸陽王と号している
 馮異はかつて不法の多かった長安の令を斬ったことがあるのだ。長安の令はもちろん皇帝である劉秀の任命を受けているのであるから、馮異に本来権限はなくこれは越権行為なのである。
 劉秀はその書をそのまま封して使者の宋嵩に持たせて馮異に見せた。馮異は恐れて上書して陳謝した。
 すると劉秀は詔で報じていう。
国家にとって将軍は、義においては君臣であるが、恩は父と子のようなものである。何を嫌がり何を疑い、恐れを懐くことがあろう
 私たちの関係は君臣ではなく、親子のようなもので、何も心配することはないというのである。馮異の経歴を考えると、劉秀よりも一世代年齢が上と考えられるので、皇帝たる劉秀が馮異に対して、あなたのことを父のように信頼している、父を疑う子がどこにいるだろうかと述べたのである。
 これに似たエピソードは他にもある。公孫述の討伐のとき、岑彭は占領地での行政の権限をすべて与えられたし、臧宮は皇帝の命令と偽って味方の馬を奪い取ったが問題視されなかった。劉秀がどれほど部下を信頼していたかよくわかる。
 馮異は、その二年後の建武六年(西暦30年)春、関中が安定すると洛陽に帰り、劉秀と再会した。劉秀は公卿に言った。
彼は私が挙兵したときの主簿である。わたしのため荊棘を切り開き、関中を定めたのだ
 引見が終わると馮異に、珍宝、衣服、銭帛を賜った。
 詔して言う。
かの慌ただしきおりの無蔞亭の豆粥、虚沱河の麦飯、その厚意に久しく報じていなかった
 かつて劉秀が馮異ら数えるほどの人数で、王郎に追われて河北を逃げ回ったとき、馮異が豆粥や麦飯を用意したことを思い出したのである。
 馮異は稽首して謝して、
臣はこう聞いています。管仲は桓公に『願わくば鉤(ベルトの留め金)を射られたことを忘れないでください。臣もまた監車に入れられたこと忘れませぬ』といい、斉国はこれを頼りにしました。臣もまた国家が河北の難を忘れないことを願います、わたくしもまた巾車の恩を忘れませぬ
 管仲は春秋時代の大臣で桓公はその主君である。管仲はかつて桓公に敵対して、弓を射て桓公のベルトの留め金に当てたが、結局、桓公が勝利し、管仲も捕虜として監車に入れられて護送されたが、その後、許されて大臣として活躍する。
 河北の難とは、劉秀と馮異が王郎の挙兵のため河北で放浪したこと。巾車とは馮異が始めて劉秀に捕まった場所で、劉秀が馮異を許したこと恩を言ったものだ。
 その後もたびたび宴で引見し、馮異と蜀を攻略する作戦を十日あまり会議し、馮異の妻子も馮異に従って西に帰るように命じた。
 将軍の妻子というものは、人質として都に残すのが常識であるのに、逆に馮異と一緒に行動させたのである。かつて馮異が咸陽王と呼ばれて自立していると讒言した者たちに、二人の信頼を見せつけたのであった。
 
功臣との宴会
 劉秀は天下統一後も苦労をともにした功臣のことを忘れなかった。
 遠くの外国の使者が訪問に来たりなど、めでたいことがあって宴会になれば、必ず功臣を集めて宴会を開いた。使者の持ち込む海外の珍味も、最初に食べるのは功臣たちで、献上物もすべて分け与えて、自分の分すら残さなかった。
 それらの宴会の中で最も雰囲気が出ているのが、鄧禹や馬武と会話したときのエピソードである。
 功臣が集まった宴会の席でのこと。
もし平和な時代に生まれたら、今頃どのぐらい出世していただろうね?
 この話題で盛り上がっていた。位人臣を極めた功臣たちも多くはいまだ三十代か四十代、本来ならこれから出世するはずの者ばかりである。
 最大の出世頭である鄧禹は、
臣は若い頃、学問をしたことがありますので、郡の文学博士といったところでしょう
 実に地味な答えをしたのである。文学博士とは、郡の学校の先生である。
 劉秀は、評して言う。
何を謙遜しているのか?そなたは名門たる鄧氏の子でその行いも備わっている、どうして功曹になれないことがあろう
 功曹は郡の宰相とも呼ばれ、出世エリートコースである。郡に仕える。
 こうして、順番にみな語っていった。
 そして馬武の番である。粗野な武人らしく、豪放な口調で宣言した。
臣は武勇によって、守や尉として盗賊を取り締まっているでしょう
 守は太守、尉は都尉であり、郡の行政長官が太守、軍事長官が都尉である。太守は皇帝に仕える。郡の君主と言うべきなのが守と尉であり、その宰相たるのが功曹である。馬武は鄧禹よりも出世するというのだ。
 劉秀は可笑しくて笑い出した。緑林の盗賊、人殺しのお尋ね者の馬武が、盗賊を取り締まるというのであるから。しかも名門の若き英才である鄧禹を部下として使うというのである。
 そしてさらに、このようにつっこまずにおれなかった。
「もう盗賊はやめにしろよ、亭長(亭は交番のような場所で、亭長は警察組織の末端になる)まで自首してくれれば十分さ(且勿為盜賊,自致亭長,斯可矣)」
 馬武はお酒が大好きで、おおざっぱな性格、思ったことはすぐ口に出さずにおれなかった。しばしば酔っぱらって、同僚にからみ、その欠点を述べたりした。説教癖があったようである。
 劉秀はこれを面白がって、笑いのタネにした。一番説教されるべき人物が説教してまわるのだから、奇妙なことこのうえないのである。
 このときの劉秀の発言は多くの本で「亭長になれれば十分さ」と訳しているが、それは誤訳であり、中国の黄留珠のみが自首の意味と正しく訳している。これは"自致"の用法を調べると確認できる。
 劉秀はその功臣たちを粛清することがなかったことで知られる。それは、功臣の小さな失敗には目をつむるようにしていたこともあるが、この馬武のようなつぶしの利かない軍人はそのまま軍人として起用し続けるなど、その家臣の能力や性格を良くみて処遇を決めていたからであった。
 馬武と劉秀は馬が合ったようだ。粗野で学のない大酒飲みの馬武は一見すると、礼儀を知り学識豊かで酒の飲めない劉秀と正反対の人物であるが、一番大事なところで共通点を持っていた。価値観である。馬武と劉秀はともに高い地位というものに取り立てて興味がなく、何よりも今楽しいことが大事であり、その楽しさの中にこそ人生の真実があると考えていたのである。
 またこうした宴会には政治的な意味もあると考えられる。
 将軍は引退したからといって、その力が完全になくなるわけではない。将軍の部下であった副将や兵士は相変わらずその影響下にあるものだ。そうした将軍がいつでも皇帝の元に集まるということを示すのは、皇帝の力を示すものでもある。皇帝劉秀はいつでも大軍を動員できる軍事力を保持していることを、時に劉秀の意のままにならず抵抗する官僚に対してデモンストレーションする意味もあるのであろう。
 
旧友との再会・劉秀の友情
 劉秀は一度会った人たちとの再会を心から喜んだ。
 こうした劉秀が再会を喜んだ相手の中でもっとも有名なのが太学時代の友人の荘光である。
 荘光、字は子陵、一名を遵、会稽余姚の人である。若くして名声高く、劉秀と同じく太学に遊学した。しかし劉秀が即位すると、姓名を変えて、身を隠して会おうとしなかった。劉秀はその賢を思い、その容貌を伝えて探させた。後に斉国より上言あり「一人の男性が、羊の毛皮の衣を着て、沢で釣りをしている」と。建武五年(西暦29年)、劉秀はそれを荘光であると疑い、赤黒の安車を準備して使者を遣わして招聘した。三度往復してやっと洛陽にやって来た。北軍の宿に泊まり、寝床を賜り、宮廷の料理官が朝夕の食事を進めた。
 司徒侯覇と荘光は古なじみであり、使者を遣わし書を奉じた。
 使者は荘光にいった。
公(侯覇)は先生が来たと聞き、一刻も早く会いに行きたいと、典司に迫っていたのですが、得られませんでした。願わくば日暮れまでに、我を曲げてこちらに来てくださいませんか
 荘光は答えず、白紙の札を投げ与えて、話して記させた。
 侯覇は西曹属の侯子道に書を奉じさせた。荘光は起きず寝台の上でひざを抱えたままで書を取って読み、侯子道に問うた。
君房はもともと馬鹿だったが、いまは三公になって、ちょっとはましになったか
位はすでに鼎足(三公のこと)であり、馬鹿ではありません
卿を遣わして何をいいたいのか
 侯子道は侯覇の言葉を伝えた。
卿は馬鹿ではないというが、この言葉こそ馬鹿というものだ。天子がわたしを三回も召したからやって来たのだ。その主にすらまだ会いに行かないのに、人臣如きに会いに行くわけがないだろう
 侯子道は返事を書くように求めた。
わたしの手で書くことはできん
 そして口で授けた。使者は少なすぎると思い、付け足すようにいった。荘光はいった。
菜を買いに来たのか(言葉を飾れというのか)、増やせというのか
君房どの、位は大臣に至り、とてもめでたい。仁を持って義を助ければ天下を喜ぶだろう、天子に媚びるなら政治の要点を失うだろう
 侯覇は書を得るとこれを封奏した。
 劉秀は笑っていった。
狂奴のいつもの態度だ(狂奴=いかれた人、奴は愛称的な使い方)
 劉秀はその日に荘光の館に行った。荘光は寝転んだまま起きようとしなかった。劉秀はその寝台まで行き、荘光の腹を撫でていった。
さてさて、子陵よ、助け合おうとしないのが、理に適っているだろうか
 荘光は無視して眠ってしまう。しばらくすると目を見開いて熟視していった。
むかし唐堯は徳が明かだったが、巣父は耳を洗った。士にはそれぞれ志しがあるからだ。どうしてここまで来てそんなにしつこく迫るのか
子陵、わたしはついに汝を下すことができなかったか
 そして車に乗り嘆息して去った。
 けれどまた荘光を呼ぶと、今度は荘光は劉秀の元にやって来た。むかし話や道について論じあい、何日にもなった。
 劉秀は気楽に荘光に問うた。
朕は昔と比べてどうか
陛下は以前より少し太りましたな
 おそらく劉秀の脇腹をつついて、贅肉がついていると言ったのであろう。皇帝になっていいもん食って贅沢してるだろとからかったのだ。まだ三十五歳、現役の勇将として肉体自慢の劉秀はムキになった。それで二人は並んでうつぶせに寝て体を比べたところ、荘光がふざけて足を劉秀の腹の上に載せたのである。学生時代の気分に戻った馬鹿会話である。
 明日、太史が客星が御座を犯すことはなはだ急であると奏した。劉秀は笑っていった。
朕の旧友、荘子陵とともに寝っころがっただけだ
 荘光を諌議大夫に任命したが、荘光は無視して郷里に帰り、富春山にて農耕生活をした。後の人は彼の釣り場所を荘陵瀬と名付けた。
 七里瀬は東陽江のふもとにあり荘陵瀬と相接しており、荘山がある。桐廬県の南に荘子陵の漁釣処があり、いまは山の端に石があり、上が平らで、十人が座ることができ、川に臨んでおり、荘陵釣壇と呼ばれている。二人の友情は永く語り継がれたようである。
 
凡人でもなく聖人でもなく
 劉秀は聖人ではない。ここでは劉秀の個人の生活を示すエピソードを紹介しよう。
 建武二年(西暦26年)、劉秀は宋弘という人物を大司空とした。
 その宋弘にさらに学識優れた人物を推挙させると、沛国の桓譚の学識は著名で、才能は楊雄、劉向親子に匹敵すると推薦した。このため桓譚を召して議郎、給事中とした。劉秀は宴会のたび、桓譚に琴を演奏させ、その美しく賑やかな音楽を楽しんだ。宋弘はこれを知って喜ばず、推挙したことを後悔した。桓譚が部屋から出るのを待ち、府上にて朝服を正し、吏を遣わしてこれを召した。桓譚が至り、席を与えようとせずに彼をなじった。
わたしが君を薦めたのは、道徳をもって国家を助けさせようと思ったためである。しかるにいまたびたび鄭声を進めて雅頌を乱すなど、忠正のものではない。自分で改められないのか。▼さもなくば法をもって相挙させるか
 桓譚は頓首して謝して辞し、しばらくしてこれを帰した。
 後に大いに群臣を会した。劉秀は桓譚に琴を演奏させようとした。桓譚は宋弘を見て、その常度を失った。劉秀は怪しんで問うた。宋弘は席を離れ冠を脱いで謝していった。
臣が桓譚を薦めたゆえんは、忠正をもって主を導くことができると望んでのこと。朝廷が淫らな鄭声にふけり喜ばせたのは、臣の罪であります
 劉秀は容を改めて謝し、服を反し、その後はついに桓譚を給事中としようととなかった。宋弘は賢士、馮翊、桓梁ら三十人を推挙し、あるものは相や公卿となった。
 宋弘はまた宴会に参席した。このとき御座に新しい屏風があり、歴史上の著名な女性たちが美しく描かれていた。劉秀たびたび顧みてこれを見た。宋弘は容を正していった。
いまだ徳を好むこと色を好むものを見たことがありません
 劉秀はすぐに撤去した。笑って宋弘にいった。
義を聞けばただちに服す。どうかね
 答えていう。「陛下が徳を進め、臣は喜びにたえません
 ほとんどエロ本を母親に発見された中学生のようである。あるいはアイドル写真集のようなものは学校の教室に持ってきて自慢したりすると先生に没収されるもの、故に自宅で一人で楽しみなさいということを、身をもって示した教訓かもしれない。
 それにそもそもよく考えるとおかしい。色を好むのを否定するなら、片づけるのではなく、燃やすなどの処分をすべきであろう。史書を読み慣れている人間なら、ここはどう考えてもその場で焼き捨てて決意を見せるべきシーンである。人前で見ないことしたって色を好まないことにはならないではないか。
 
姉の婿探し
 劉秀は旧友を大切するだけでなく、家族思いでもある。家族とのエピソードを一つ紹介しよう。
 劉秀の姉、湖陽公主の劉黄は夫の胡珍が亡くなったので、再婚相手を探すことになった。劉黄は劉秀と家臣が論争しているのを屏風からのぞき見ていた。劉黄がいった。
宋公の威厳、容貌、人格、才能、臣下の誰とも比べものになりませんわ
 何ともべた褒めで、すっかり惚れ込んでいるようだ。
 宋公とは大司空の宋弘で、建武二年(西暦26年)から五年間、大司空に在職していたので、その頃とエピソードとわかる。
 しかし問題は宋弘には妻がいるということである。まさか皇帝の姉を妾にはできない。
 そこで劉秀がいった。
よし、ではちょっと作戦を実行してみよう
 劉秀は姉に屏風の後ろに隠れさせて、それから宋弘を引見すると、宋弘と政治やその他よもやまの話をし、ふと溜息をついていった。
ことわざでは高貴になれば交わるものをかえ、富めば妻をかえるというが、これは人情というものかなあ
 大臣になった宋弘に新しく妻を迎える意志があるか探ろうとしたのである。
 ところが宋弘は嫌なものを聞いたかのように顔色を変えていった。
臣は、貧しいときや身分の低いときの友人を忘れてはならず、苦労をともにした妻は正妻の地位から追い出してはならないと聞いています
 劉秀は振り返って姉にいった。
作戦失敗です
 高貴になれば交わるものをかえ、富めば妻をかえる。実にひどいことわざである。陰麗華が聞いてしまったらどうなるか、想像するだけでも可笑しい台詞である。
 しかし劉秀は妻の陰麗華を生涯大切にしていた。赤眉軍を降伏させたときは、妻を大切したことを命を助けるに値する善として一番目に挙げるほど、女性を大切にする人である。おそらくはついたての後ろにいる姉に聞かせて、諦めさせるために言ったのであろう。もしもその通りと言って、姉を妻としようなどと答えたら逆に怒ったかもしれない。
 
糟糠の妻を大事にせよ
 このときの宋弘の返答にある一節、
「貧しいときや身分の低いときの友人を忘れてはならず、苦労をともにした妻は正妻の地位から追い出してはならない」 
 
 貧賤之知 不可忘
 糟糠之妻 不下堂
 
 には、深い意味があると思われる。4343の句構造で、主部と述部の組み合わせから成り、脚韻も正しく踏んでいる。後の唐の時代に成立するとされる七言絶句に似ていることから、歌か詩と考えられる。そしてそれは、劉秀がかつて嘆じた
「官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」 
 
 仕官当作 執金吾
 娶妻当得 陰麗華
 
 と、同じ構造なのである。これは偶然であろうか。というのは、調べても、これと同じ構造の句は後漢以前にはほとんど存在しないのである。唯一見つかるのは、十年以上後に、優れた地方官であった郭賀について民衆が歌った歌、
 
 厥德仁明 郭喬卿
 忠正朝廷 上下平
 
 だけなのである。
 たった二つしかなくては偶然とは考えにくい。しかもこの2つはどちらも妻に関する歌、意味も関連しているのである。偶然でないとすればどのような関係なのか。
 宋弘が「~と聞いている」と答えていることから、この歌は広く民衆に知られている歌とわかる。宋弘の大司空の在職は建武二年から建武六年で、当時の皇后は河北出身の郭聖通。しかし後漢王朝の政権の大臣は南陽出身者が多く占めており、ほとんどの人々は、当然、皇后は陰麗華になるべきと考えていた。郭聖通は、その後ろ盾である劉揚が謀反により死んだこともあり、決して評判がよくなかった。民衆の多くも陰麗華が皇后でないことに不満であったと考えられる。
 そのため劉秀が郭聖通を選んだことを批判し、劉秀の有名な若い頃の発言を使って、その続きであるかのように反論する形で「貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂」の歌が広まったのではないか。すなわちこれは、大衆の陰麗華への同情から生まれた歌と考えられるのである。
 
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