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劉秀の死と遺言・百姓に益するところなし
 中元二年二月戊戌(西暦57年3月29日)、すなわち倭国の使者来訪の翌月、まるで自らの死期を知っていたかのように、封禅の儀式のちょうど一年後のこと。
 劉秀は南宮の前殿にて亡くなった。六十三歳である。遺言の詔にいう。
「私は人民に益するところがなかった(朕無益百姓)。葬儀はみな孝文帝の制度の如く簡略にせよ。刺史、二千石の長吏はみな城から離れてはならない。官吏を遣わしたり上書してはならない」
 驚くべき発言である。私は人民に益するところがなかった――これはまさに国民に対する謝罪に等しい言葉である。前半生を過酷な戦場で戦い続け、後半生も周囲が過労を心配するほどに働き続けた男の最期の言葉は、結局、私は人々の役に立てなかったのだ、というものであった。
 この言葉は、実は劉秀が尊敬する祖先の皇帝、文帝劉恒の遺言を模倣したものである。劉恒は「私は人徳がなかった上に、人々を助けることもできなかった(朕既不德,無以佐百姓)」と述べている。だから葬儀も文帝のようにせよというわけだ。
 しかし注目すべきはその言葉の続きである。劉秀は、自分に向けて喪に服すために仕事を休むことはもちろん、弔辞一本書くことすら容認しなかったのである。まるで自分が罪人であるかのような扱いである。
 これはあまりに厳しいということで、研究者の間でも誤伝ではないかと疑われるものの、あらゆる資料がほぼ同じ文面を載せているため正しいのであろうとされている。
 だがこれは劉秀の本心であった。劉秀は前半生の戦場で死闘の中に生き、後半生を朝早くから夜まで周囲の人が心配するほど政務に努めて、国家の復興のために尽くした。その結果、統一時の人口は千五百万人程度だったのが、晩年には二千五百万人にまで到達するという驚異的な回復を見せた。
 ところがこれは劉秀にとって満足できるものではなく、喜ぶに値しなかった。劉秀は前漢の末年に生まれ、青春時代を王莽の新王朝の都長安で過ごした。新王朝は混乱と腐敗の王朝ではあったが、まだ大混乱の直前であり、総人口は六千万人近く、危ういながらも繁栄を誇っていた。
 これに対して劉秀が天下を統一し戦乱を終わらせ、その後に平和な時代が続いても、劉秀の死の直前に記録された人口は二千五百万に過ぎない。まだ半分の三千万にも届いていなかった。どれほど劉秀が努力しても、世界は自分の青春時代の繁栄した時代に遙かに及ばなかったのである。
 その両方の時代を生きた劉秀は、違いをはっきりと感じることができた。劉秀は自らの無力感を感じざるを得なかったのである。
 人々の役に立てなかったという最期の感嘆は、今なお世界は劉秀の理想からはほど遠く満足できるものではなかったことを示している。
 またおそらくこの厳しさは、次代の皇帝である息子への遺言でもあったのであろう。俺程度では駄目だ。お前は真の平和を築かねばならぬのだ、と。
 それは全国民に向けた遺言とは別の、次代皇帝、息子の明帝個人に向けた遺言からもわかる。明帝は即位のときの詔で次のように述べている。
「聖なる父皇帝は、天下のことを判断するときは何度も何度も繰り返し考えて、名も無き庶民を最優先にするようにしなさい、という戒めの言葉を残された(聖恩遺戒,顧重天下,以元元為首)。」
 ここには劉秀という男が、その死の最後の瞬間まで人々にできることをし尽くそうとし、自分に成し遂げられなかったことを、息子が受け継いで実現してくれることを願う気持ちが見て取れる。
 驚くべき自己否定である。かつて天下統一とともに武器を捨て、将軍としてのアイデンティティーを自ら全面否定することで、戦争のない平和な時代への道を切り開いた劉秀は、その死に際して自ら自分自身をも否定し、新しい皇帝による新しい時代への道を切り開いたのである。
 
光武帝の陵墓について
 建武二十六年(西暦50年)、皇帝の制度に従って、生前より陵墓を作ることになった。劉秀は、
古代の皇帝の埋葬は、瓦や陶器に木の車や茅の馬だけであったので、後の人にどこに埋葬したのかわからないようにした。文帝はそのことをよく理解していた、また息子の景帝も孝行の道に従ってそのように薄葬にしたので、天下が大乱になっても、文帝の覇陵だけは盗掘に遭わなかったが、素晴らしいことではないか。私の陵墓も広さは二、三頃とし、墳丘も作らず池を作って水を流せば十分である
 と述べた。こうして水を引くために川辺に陵墓が作られたのである。
 実は光武帝陵には論争がある。現在、公式に光武帝陵と見なされているものは、北魏孝文帝のときの祭壇であるという説があるのだ。塩沢裕仁は、桓帝陵とされる劉家井大墓こそ光武帝陵であるという。『水経注』の記載に一致するのは劉家井大墓であるとする。
 三国魏の文帝の曹丕によると、明帝が豪華な陵墓にしたため、光武帝陵は董卓の盗掘にあったとされている。
 しかし盧弼の『三国志集解』は、董卓が諸陵を盗掘したが光武帝の原陵は手つかずのままなのは薄葬したおかげとしている。
 『後漢紀』によると、章帝が光武帝陵や明帝陵に国を設置しようとしたが、東平王劉蒼に諫められて中止したとある。そこで劉蒼は「光武帝は率先して倹約しすべてに古代の制度に従って陵墓を作り、明帝は孝行で父の言葉を守り何も追加しなかった」と述べている。明帝の死後の発言である。しかも上奏文であるから公式記録の写しと考えられ、信頼性は高い。このことから明帝が光武帝陵を豪華にしたという曹丕の言葉は、おそらく他の皇帝の陵墓と勘違いしたのだと思われる。曹丕は劉秀より二百年近く後の人物なのである。
 公式認定されている光武帝陵には、北魏孝文帝祭壇説があることから、盗掘の跡がないとわかる。盗掘の跡があれば祭壇説は消滅するはずだからである。また桓帝陵とされる劉家井大墓は、完全に盗掘に遭っていると考えてよいだろう。
 どちらが正しいのかは確定できないものの、やはり公式の光武帝陵が有力なのではないかと思う。皇后の陰麗華は60歳で永平七年(西暦64年)に亡くなり、光武帝陵である原陵に合葬された。二人は今も同じ墓で、盗掘に悩まされることなく安らかに眠っているのかもしれない。

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