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赤眉軍の降伏
 建武三年(西暦28年)一月。鄧禹がいなくなった後、馮異は陣地を堅く守り、逃げ散った兵士を集め、また関中の豪族など数万人を招き入れた。そして赤眉軍に通知して時期を約束して戦うことにした。そして勇士を選んで赤眉と同じ服装をさせ、道の横に隠れさせた。
 次の日、赤眉軍の一万人が馮異の前方部隊を攻めた。馮異はわざと少しの兵士を出して救援した。赤眉軍は兵力が少ないのを見て、簡単に勝てるぞと、全軍で馮異を攻撃した。馮異も兵をさらに出して激しく応戦する。日が傾くころ、赤眉軍の気力が衰えてきたとき、赤眉軍の服装をした伏兵が出現して襲いかかると、衣服が交じり乱れて、赤眉軍には敵味方を識別できず軍勢が壊滅して逃走した。馮異が追撃し崤底で大破し、赤眉軍の男女八万人を降伏させた。
 赤眉軍の残りの兵力十万人あまりは東に宜陽に逃げた。
 左将軍の賈復は別働隊となって、赤眉を新城と黽池の間に攻撃して破り敗走させた。賈復はこのまま宜陽で劉秀と合流した。
 劉秀は赤眉軍の逃走方向へ向かった。大司馬の呉漢の精鋭を先鋒とし、中軍がこれに続き、驍騎、武衛が左右に並ぶ大軍である。完全武装の精鋭兵団が整斉たる軍陣をひいて敗走する赤眉を待ち受けたのである。
 赤眉軍は忽然と現れた大軍を望み見て恐れおののいた。ここまで飢えに苦しんでいたところに馮異、賈復に立て続けに敗れて逃げ回り疲労困憊のときに、精兵の大軍が現れたのであるから、その絶望感は圧倒的であった。そこで劉恭を遣わして降伏を乞うた。
盆子が百万の兵力を率いて降伏致します。陛下はどのようにもてなしてくださいますか(陛下何以待之?)
「命の保証をもってもてなすだけだ(待汝以不死耳)」
 劉秀は相手がどうもてなす(待)か聞いたので、もてなす(待)を使って答えている。劉秀はこうしたシャレのような受け答えが好きなようで、たびたび頻出する。
 この簡潔な言葉はむしろ赤眉の将軍を安心させたようだ。樊崇や皇帝の劉盆子、丞相の徐宣など三十人あまりが上半身を裸になって参上し降伏した。彼らは伝国の玉璽と更始帝劉玄の七尺の宝剣、玉璧を劉秀に献上した。
 この赤眉軍との戦いは、以前の銅馬軍との戦いと共通点がある。それは敵を食糧不足に追い込んで戦意をそぎ、断続的に攻撃をかけて何度も敗走させ、疲労困憊したところで全戦力を投入して降伏させるというものである。劉秀は味方だけでなく敵の死傷者も最小限に抑えようと考えていたことがわかる。もしも一気に戦いを終わらせるなら、伏兵を置いて退路を断って殲滅するのが速いがそれを決してしないのが劉秀の戦い方なのである。
 というのも劉秀は皇帝であり、敵軍の兵士もまた自らの臣民だからである。劉秀は馮異を戦場に派遣するときに、戦いの要点は勇猛に戦うことや領土を広げることではなく、反乱を鎮めて民衆を安心させることにあると述べたが、この戦いで自らその見本を見せたのである。
 さて赤眉軍の武装解除を行うと、兵士の鎧が宜陽城の西から熊耳山にずらりと並ぶほどの量となった。
 劉秀は県に命じて赤眉軍の兵士に食料を与えた。赤眉軍の人々は長く空腹だったが、十万人あまりがみな腹一杯食べることができた。
 明くる朝、劉秀は洛水に臨む平原に兵馬をととのえ、そこに劉盆子とその家臣とともに軍を眺めた。
 劉盆子にいった。
殺されないと思うか
罪は死にあたりますが、ただ陛下が憐れんで赦していただけるのではと思うだけです
 劉秀は笑っていった。
子どもだけにちゃっかりしてるな。宗室には愚か者はいないようだ
 また樊崇たちに言った。
降伏を悔いてはいないか。朕はいまそなたたちを自分の陣に帰し兵を指揮させ、太鼓を鳴らして戦い、勝敗を決してもよい。強いて降伏させようとは思わぬ
 徐宣たちは叩頭して言った。
臣どもは長安の東都門を出て、君臣が協議して、聖徳に帰することになりました。民衆は楽しみをともにすることはできますが、事業をともに始めるのは難しいので、兵士には告げませんでした。今日降伏できるならば、まさに虎の口を逃れ慈母に帰したようなもの、まさに歓喜するところで、思い残すことはありません
そなたはいわゆる鉄中の錚錚、傭中の佼佼というものだな
 鉄中の錚錚とは鉄の中ではチャキチャキとよく切れるもの、傭中の佼佼とはぼんやりしたものの中で光っているもの、すなわち凡庸な中では優れているという意味で、徐宣のへつらった発言に対して嫌みを言ったのである。
そなたたちは恐るべき悪事をなした。通るところ老人も子どもも殺し、土地の神々に小便をかけ、井戸やかまどを汚した。しかしなお三つの善がある。城を攻め破り天下をかけめぐったが、女を奪って妻を捨てることをしなかった。これがその善の一である。君主として劉氏を用いた。これがその善の二である。賊軍というのは君主を立てても、負けて降伏するときは君主の首を取って降伏し自分の功績とするが、そなたたちだけ君主を守って朕に降伏した。これがその善の三である
 この三つの善があるから、命が赦されるというのである。赤眉軍の大臣たちは、家族とともに洛陽に住み、一人当たり一区の邸宅と田二傾が与えられることとなった。
 半年後、樊崇と逢安は謀反が発覚し殺された。自由に天地を荒らし回った彼らには、洛陽での軟禁生活は耐えられず、逃亡を謀り処刑されたということである。
 他の赤眉軍の将軍はどうなったか。
 楊音や徐宣は数年後には郷里に帰ることが許され、家で天寿を全うした。
 赤眉軍の皇帝建成帝劉盆子は劉秀から特別に目をかけられ賞与も多く、後には趙王の郎中となった。後に、病で失明したが栄陽の市税を終身に与えられ天寿を全うした。
 劉盆子の兄、劉恭は謝禄を殺して自首した。謝禄は更始帝劉玄を殺した張本人である。そのため主君の仇討ちと認められて赦された。まさに天下の義士というべき劉恭であるが、その死は信じられないものである。
 更始帝劉玄には、劉求、劉歆、劉鯉の三人の子どもがいて諸侯として爵位をついだ。幼かった劉鯉は成長すると、父劉玄は、劉盆子に殺されたと考えて、仇討ちとして何と劉盆子の兄の劉恭を殺したのである。劉恭といえば、劉玄を徹底して守り続け、一度は命を助け、遺体を守り、仇討ちまでした劉玄の恩人である。兄だから殺すのは筋違いだ。もしかすると複雑な裏話があるのかもしれないが、残念ながらそれは伝わっていない。
 
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